あろは あひあひ かこーう
月が少しずつ欠けて来ています。
La’auの月が今日でpau、明日から’Olekū
今日の海はピアの北、波があっても
カスミアジがいたり、
幼魚たちが群れから独り立ちしていたり
ネズミフグがじっとしていました。ハリセンボンはよく見ますが、
これは珍しいかな。。
透明度はイマイチでしたが、、
今日のカイルア湾はカハルウより明るく
泳ぎやすく感じられます。
「パニオロ」がイスパニオロのハワイ式発音というのは
前に書きました。スペイン語を話すメキシカンが
コナの最初のカウボーイだったから、だそうです。
新聞の写真を撮った写真
11月7日、お友達のお兄さんが亡くなりました。
日本人のパニオロで有名だったこの方
加藤ミキオさん。92歳でした。
毎年ニューイヤーズ・イブ(大晦日)に
お友達の家で、皆んなが集まって、おせち料理を食べる時に
ご一緒させてもらっていました。
これも新聞の写真のパクリです。
パニオロ保存会の重鎮でした。
奥さんのエレンさんは現役の生け花の先生。
両脇はMr.&Mrs.Akaka、
Mikiことミキオさんは1928年ケアラケクアの
酪農家の家に生まれます。6歳の時から馬に乗り
乳牛を見て回ったり、仔牛を探したりという仕事を、
学校に行く前と、帰ってからも、していました。
16歳から牧場主に雇われ1日50セントで働いていました。
ワイルドな動物を扱う仕事は、
誰にでもできるものではありません。
1956年から北コナの山側、「プウヴァアヴァア」という、
アメリカでも一番古い牧場でカウボーイとして雇われ、
水道も井戸もない生活をしていたそうです。
コナのプウアナフルのすぐ南にある、
一番もっこりしたプウ
45000エーカー(100万坪以上)の広大な牧場で
50年間、馬の背中に乗って働き続けたそうです。
2代の牧場主に仕えた時には、干ばつがあったり
山火事があったり、と大変だったそうです。
中でも大変な仕事は、テキサスまで行って
36頭の雄牛をコナまで連れてくること。
この時は、バージ船が使えなくなったり、
様々な問題が起こり苦労をしたそうです。
最後には自分が牧場主となります。
パニオロを引退してからも、郡のコンサルタントとして
活躍しました。密猟の取り締まり、
自然保護にも尽力されたそうです。
2002年には優れたパニオロとしての受勲、
2008年にも表彰され、
ワイメアの桜祭りのヒーローとなりました。
私の友達は末っ子で、ミキオお兄さんとは16歳違い、
彼女が生まれた時に、ミキオさんは
もう家から出ていたそうです。
でも、歳を取ってからは仲良く行き来していたようです。
10年以上毎年、会っていたのに、
食べるのにかまけていた私、、
もっとTalk Storyしておきたかったと、悔やまれます。
日本人として最後のパニオロさんでした。
ミキオさんのご冥福をお祈りいたします🙏🏻
パニオロさん仕事帰りにバーに寄ろう
さて、「オラ」というハワイ語は
なんという意味でしょうか?
マーラマ・ポノ🙏 まはろ なー あくあ
お大切に〜、明日もいい日でありますように
マハロ ピハ!