アロハ・アヒアヒ(こんばんは) ペヘア・コウ・ピコ?
おへそはお元気でしょうか?
今日の月はクー・コル
1、2、3、はカヒ、ルア、コル
また、夕べも曇っていて月が見えない夜でした。
今夜は午後9時19分が月の入りなので
少し見えるかもしれません。
ジャカランダの花盛りがだんだんマカイからマウカに移動して来ました。
マカイでは3月ごろから咲き始めマウカのワイメアの方は6月ごろに咲きます。
一カ所の木なら一斉に咲いて一斉に散るので桜に似ています。
花吹雪のように、ハラハラとは散りませんが地面に紫のカーペットを
敷き詰めたようにびっしりと散るので綺麗です。
ハワイの桜は一本の木でも、11月頃から4月頃まで
チラリホラリとちょこちょこ咲くので、
桜のいさぎよいイメージが全くありません。
ワイメアでは桜祭りが2月に開催されますが
ちょろっと咲いている木や、蕾の木や、花が散った枝と固い蕾が
混在していたり、ソメイヨシノからは程遠い品種です。
戦前の日系人はジャカランダを桜に見立てて
花見をしていたそうです。
紫を薄ピンクだと思えばいいだけです。
満開の木の下にお酒や食べ物を持ち寄って
飲めや歌えやの宴会をしていたそうです。
”ジャカランダの径(みち)”という本があります。
ホルアロアに住んでいたハヤシサブローという
お医者さんの伝記のような本です。
ドクター・ハヤシはコナでは有名で
車を持っていて運転できた数少ない住民だったといいます。
元々は1867年福島県生まれ、サンフランシスコの医学校を卒業し
1895年にコナに来ています。
当時の日系人は現金を持っていなくてツケで買い物をすることが
多かったそうです。治療代も払えなくて野菜や果物をあげられるだけ
ドクターに渡していたそうです。
1896年には日本人墓地を創設しています。
1897年に”コナ反響(英語名コナ・エコー)”という
コナで初の日本語新聞を発行した人としても名を残しています。
モクアイカウア教会のベルでしょうか、フアラライが富士山のように
描かれたオシャレなデザインが新聞のロゴです。
患者さんのために走り回り
さらに、コナ反響社という会社を立ち上げ、
自分で輪転機を回して週2回の新聞を発行していました。
自宅を兼ねた新聞社は今のホルアロア郵便局の隣の隣、Y字路の所。
1898年にはホルアロア日本語学校も設立し
奥さんのマツさんが先生だったそうです。
今のイミン・センターの場所です。
エネルギーの塊のような人だったのでしょう。
お子さんも12人いらしたそうです。
1941年に真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると同時に
新聞も日本語学校も全て廃止となりました。
知り合いの弟さんと一緒に釣りに行って
高波に飲まれボートが転覆したそうです。
その弟さんは亡くなったけれど
ドクターは助かったそうです。
ドクター・ハヤシが車で行き来していたでこぼこ道に
今の時期はジャカランダが色を添えていたのでしょう。
コナワエナ小学校の近くに、それは見事な
ジャカランダの大木がありました。
樹齢100年は超えていたと思います。
伐採されて今はもうないのですが
あの木とドクターがセットで思い浮かびます。
中南米原産なのでスペイン語では
ハカランダというそうです。
熱海や宮崎などでも見られますよね
ハカランダ切られた世の中、はかなんだ
昨日のチビGreen Flashです。
コナホスピタルに、一人だけ入院していたコロナ患者は退院したそうです。
マーラマ・ポノ🙏 どうぞお大切に! マハロ〜
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